昭和四十七年七月五日 朝の御理解
x御理解第二十五節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
一心と定めい、神様のおかげを頂かねば立ち行かんと一心と定めい。神様のおかげによって出来た繁盛であり財産でなからなければ本当のものじゃないんだと心を定める。そうだと分かるとゆう事。自分の我慢我欲で出来た財産では本当のものじゃない。そうゆう一心をまず定める事。
まあ神様からお手伝をしてもらうおかげでは駄目だと、こちらが、そのお手伝をさせて頂くのであって、神様が働いてくださるのが中心なんだ。言わば車をひっぱるでも、神様にひっぱって頂いて、こちらは後押しをさせて頂く程度の事、と、そこのところに一心を定めませんとね、所謂大きな信心が出来ませんです。
勿論そこのところの一心が定められてから、大きな信心でないかぎり、所謂大きなおかげも受けられん。大きな信心には、だから大きなおかげが伴うはずです。
言う事だけは大きな事を言いよったっちゃですね、大きなおかげが伴わなかったら、それはもう空論です。いかに天下国家を祈っとったってです、そうゆう事じゃない。私はまず、その根本の心はね、一心とさだめておかなければいけない。そんなら、どう定めるかと言うと、神様のおかげを頂いたもんでなければいけないとゆう事。所謂神様のおかげを頂かねば立ち行かないとゆう、ここんところをね、まず分かる事。信心は壮健なとも信心の油断をすなとありますねえ、所謂健康だから信心の油断をするなとゆう事だけじゃない。まあ順調に商売がいきよるからと言うてもいいわけです。だから順調に行きよるから、まあ時々参りゃよか位の事では出来んて。これは健康とか商売だけの事じゃないですよ、全ての事がそうです。まあ今おかげで内輪もこっとりとも言わんから平穏無事で行きよるから、と言うて油断をしちゃいかんとゆう事。ところがそうゆう意味で、私は油断してる人が沢山あると思うのです。
今朝私、御神前でね、昔善導寺では法会の時なんか、よく広場でお芝居があっておりました。歌舞伎芝居が来よりました、何時も。私も変わっとったなあと思うんですよ、小学校の五、六年生じゃなかったろうかと思うです。芝居も好きですし、商売も好きでした子供の時から。それで私はね、中売りに行った事があります。中売りとゆのはですね、この整理箱の中に、飴やらラムネやら餅やらを入れてね、お芝居の中を売って歩くわけです。やっぱり少なくても五十銭位儲かった。もう多か時は八十銭位、一円近く儲かった、お芝居見ながらですから。近所の友達が何人か、私が五十銭も八十銭も儲かるちゅうもんですから、真似してきたけれど、もう一日でももてませんでした。やっぱり好かにゃ出来る事じゃなか。
今日はね、私は神様から頂く事は、その時分にちっと面白い中売りのおっちゃんがおりましてね、それが、こげな、兎に角、触れ売りをするというゆう、触れるとゆうだけでもなかなか出来るこつじゃないです。あの中売りに歩いてですね、「ラムネはよかのう、豆はよかのう」と言うだけでも言えんです。それがおっちゃんが、こうゆう事を言うのですよ。「寝とるもんは起しやよかの、嫁ごさん持たんもんは持ちゃよかの」とゆうようなね、冗談を言いながら、その売っていくおっちゃんがおりましたがね、そこんところを頂くのです。「嫁ごさん持たんもんは持ちゃよかの、寝とるもんは起しゃよかの」と。
私は例えば、沢山合楽でも信心頂いておられる方達がありますけれども、本当の、言うなら、もちとゆう事は心持ちとゆ事だと思うのです。あなたの心持ちは信心しよるけれども、どこに焦点が於いてあるかとゆう事。信心はしよるけれども眠り信心、だからそげな人は、ひとつ起しゃよかのである。
昨日神愛会の時、若先生が話しておりましたが、今、夏期修行が始まらして頂いてから、日吉さん所のお母さんもお参りさしてもらう。ところが、何か、その、ちょっと眠かったけん今日は、ちょっと御無礼しようと言うて、昼寝した。そしたらお夢の中にね、合楽の熱心な御信者さんばっかりがですね、紫の裃を着けて、起し来なさったとゆうお知らせを頂いている。成程今度の修行を神様が納めますとおっしゃるが、折角今度の夏期修行におかげを頂こうと心持ちが出来た。だから今日はもうよかよかとゆうような事では折角神様が受けようとなさっておられるのに、そうゆう姿勢を崩したら、どうなるかとゆう事だろうと言うて昨日話しております。
昨日応接間に変わった大きな花瓶がきているんです。これは中国美術を商う人がお供えを昨日持って来てくれた。それを私応接間に置いとる。その事からでした、ほんに最近な、今頃朝鮮から見事な壷を頂いた。昨日は支那からこうゆう大きな花瓶を頂いた。その前の日は、家内はフランスの何とかとゆう有名な香水を頂いた。若先生はオランダかどこかの有名な皮のネクタイを頂いた。その前の日は台湾から送ってきたと言うて、台湾のお酒、それからパイナップルの砂糖漬け、それにまぁだ色々他にもね、肉の澱粉のようなものを頂いた。成程、今頃はね、世界の市場に出さんならんと大きな事ばっかり言いよるけれども、もう向こうの方からね、もう何ヵ月かの間に、例えばそうゆう海外からね、集まってくるとゆうようなおかげを頂いておるとゆう事は、もう神様の方が、もう待ち望んでござるようなものを感ずるじゃないですか、と言うて話した事でした。
所謂大きな信心なんです。だから私が言いよる大きな信心がです、私が只うだごつばっかり言いよるとゆうのではなくてです、真実そのあらなければならないと思うとるから、しるしにでもわざわざね、それこそ海を越え山を越えしてお供えでも集まってくるんだと、まぁ言うなら裏付けのようなもんだと。大きなおかげを頂かなきゃ出来ん。それには例えば、これは私の場合など神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないとゆう一心が定められてある。
昨日も先生方にね、話した事でしたけれども、こじんまありとした教会長で納まって、これで食べるだけはやっていけるから、もうこん位な信者がおりゃよかなんてんけちな考え方など起しどんしなさいますな、もうそれこそ、ああた方はどげん思いなさるか知らんけれども、私は信者時代に思いよった。これは神様が大坪総一郎でなからにゃでけんといったような思いとか願いがかけられておるに違いはないと思うたから、難儀が難儀とも感じられなかった。こん位な修行位当たり前だろうと思うた。
取り分けお道の教師としてお取り立て頂いたのですから、信者の中の、又信者としての自覚、これは私でなからなければ出来んとゆうような神様が大きな願いをかけておられるのだから、こちらも大きな願いに燃えておらなければいけませんですよと、ゆうような話をさせてもらった。
だからこれは先生方だけじゃない合楽に御神縁を頂いた人はです、各々がその自覚に立って頂きたい。ところがです、商売がすこぉし順調にいくようになった、事業が何とはなしに軌道に乗ったとゆう頃からです、所謂眠ってしまう。信心を止める訳じゃない。そげな人に例えば眠っとる者は起しゃええのとゆう事じゃなかろうかと思う。嫁ごさん持たん者は持ちゃええのとゆう事は、そうゆう事じゃなかろうか。あんた方が心持ちの持ち方が違う。只これば頂きゃよかとかゆう、こまぁか心持ちじゃ出けん。今日の御理解を頂くなら、大きな心持ちを持てとゆう事。それには合楽に御神縁を頂いたとゆう事だけででもです、神様の願いが親先生を通してかけられておるんだとゆう思いに私はならなければいけないと思う。
昨日お食事の後に、高橋さん繁雄さんと話とります時に、今度北九州の方に、又支店が出来ました。黒崎と小倉、それで先日あちらへ参られたところが、あちらの店長が「社長、皆を集めて、ひとつ話をして下さい」と、言うなら三福の行き方といったようなものを、前の社長が言うて帰りました。「今度の社長は俺と違って若手でえらいやり手のごたるから今迄のようなことじゃいかんぞ」と、言うておりましたが、一遍ああたの、言うならば、こうゆう方針で私の店は進むといった事を、もう飯炊きのおばさん達に?る迄全部集めて話をしてくれと言われましたが、どうゆう風な話をしたらよかろうかとゆうような話からでした。
もう本当に親先生、それこそ棚から牡丹餅のようなおかげは願うなとおっしゃるけれども、私の方こそ棚から牡丹餅のようなおかげでございますと言うて話されました。まあ言うならば古い暖簾を持っておられる。三福とゆうお店、新天町と千代町に持っておられたのが、そうですけれども段々支店を増やしてゆかれる。久留米に支店を出す時などは、先生、本当銀行は貸してはくれないし、それで保険をいくつも解約してから、あちらの資本は作ったような事でしたが、言うなら四苦八苦でしたけれども、段々おかげを頂いて福岡に又店を作り長崎に作り、そして今度又北九州に新設させて頂きましたが、今度のなんかは、もう本当にそれこそ棚から牡丹餅のようなおかげでした。どうしてこれだけの店を止められる事になったのだろうか。まあ道楽でしよんなさいました感じですねえ。もうあらゆる設備がちゃんと出来て、人材もちゃあんと、それこそ飯炊きのおばさん達迄揃うとる。おそらくは、まあおかげを頂いて、一億位の売上は上がるでしょう、と、まあ九州で一億の売上の上がる寿司屋は他にありますまいと言うて話しとりました。いやぁ段々おかげ頂いていきござる。けれども、それは決して棚から牡丹餅じゃない。もう当然の事としてのおかげだとゆうのです。只信心もなあもせんなりにです、打ち込みも、なあもせんなりにおかげ頂きよるとなら、棚から牡丹餅じゃろうばってん、それこそ一にも神様二にも神様三にも神様とゆう、言うなら高橋さん合楽におる方が多か位です。又合楽に高橋さんでなければ出来ん御用がいっぱいある訳なんです。
私は思うのにですねえ、そうゆう体験というか、今日申します一心と定められた、言うなら大学出の法学士、商売人じゃないから。ですから自分は神様のおかげを頂かなければ出来んとゆう思い込みが出来てきた。神様に一生懸命打ち込んで、言わば、そして頂けるだけのおかげで良いとゆうのだから、何かしずくのようなおかげですけれども、その神様のしずくと言うおかげは、大したおかげになってくるのです。久留米の初代が仰ったように人間の一握りちゃこれだけだけれども、神様の一握りとゆうのはどれだけあるじゃれ分からん、とおっしゃるおかげに一歩足を踏み入れられておられるとゆう感じが致します。どがしこ頑張ったところで人間の一握りというのは、これだけなのだ。それでそんなら調子よういきよるけんと言うて、言うなら腰掛けとる人がいくらもあります、合楽に。そうゆう人達は、どうかひとつですね、本当に起さにゃいけんなあと、そうゆう心持ちを作らせにゃいけんなあと、まあ今朝の二十五節を頂きながら思うのです。
言うなら、神の用をたせば氏子の用は神がたしてやるとおっしゃる。本当にそこんところに一心と定めてある。私は、高橋さんの話を聞きながら本当にそげな具体的な話は、ここでお届け聞かんものですから、ほうそげなこつのと言うちから、私聞いた事でした。ほんなこつ、そりゃ一億ちゅうなら、九州には一億も売り上げる寿司屋はおるめえと思うた。してみると、これはあながち日本一を目指せと親先生が言われるが、日本一も、これは、ばさらか夢じゃない、とゆう事になってきた訳です。関西関東にでも支店が出来る。そうして又おかげを頂いとる事は、そうゆう、その大阪かどこかの方だそうですが、年に何遍かしかやって来ん、北九州の方へは。ですからもう大将がおらんでん十分やってゆけるとゆう人材が揃うておるとゆうのですから。私も、そげんしげしげと、あちらへ店があるからと言うて、行かんでもよかちゅうとこなんか、なんともかんとも言えませんと、こう言う。ずるうしてしやない、私には神様の御用があるんだから、私用位やはり神様がおかげ下さるとゆう事。だからそうゆう実証をしていきつつある人が、言うなら紫の裃でもつけとるのじゃなかろうか。そこにひとつの安心が生れた生き方をしておる。神様のことをさせて頂いて、もうそれこそ神様のおこぼれでいい、しずくでいいて。ところがその神様のおこぼれと言うのが、しずくというのが大した事。神様のひとしずくとゆう事は大変な事なのだ。
私はそうゆう信心をです、私は今日は大きな信心というのではなかろうか。大きな信心するからには大きなおかげを頂かなきゃいけん。大きな信心大きな信心と口だけ言うとったっちゃです、神様がそれを実証して下さらなかったらです、それは口ばっかり。そんなら私が、本当に合楽で現在言うておる信心をです、どうでも世界中に広めていくようなおかげを頂かなければならんと、私が言いよればです、ここそんならひと月余りにです、世界中から色々なものが集まってくるとゆう事実がね、そこにあるとゆう事。そうゆう実証をね、ふんまえながら、私共の信心の言うならば、果たして大きな信心であるかどうかとゆう事を確かめてゆかなければならない。
それには、まず自分の心持ちがどの辺のところに置いてあるかとゆう事。又自分の心が本当にお参りやしよるばってん、本当に目が覚めてないとするなら、やはり目を覚まさせて頂かなければいけん。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませとおっしゃるが、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないのであるから、その神様に一心をです、捧げるとゆう事がです、が分かるとゆう事が目が覚めた時なんです。只神様にはお願いをしてから、ちょこっとばっかりね、まあ神様からお手伝いしてもらう位なおかげではいけんのです。大祓式の時頂いたように、祓の神事とゆう事はどうゆう事かと言うとね、百斤の石が百十斤位にはなる働きはあるとゆうのです、私の祈りの圏内で行なわれる大祓式は。私と言うとおかしいですけれど、金光大神のお取次を頂いて、そして私の信心でなされる時に、その位の働きはあるのだと、だからお祓いしてもろうただけで今年は無事安全のおかげがいただけるとゆう程度の事ではいけないとゆう事。こげなおかげは神様にぶら下がっとるようなもんです。それからと言うて、ぶら下がっとるからと言うて神様は振り落としはしなさらんですけれども、振り落とされる事はないけれども、私共が後押しをさせて頂くとゆう信心、そして神様からは引っ張って頂くとゆう、神様のおかげを頂かねば頂ける事でも、おかげを受けるとゆう事でもです、私共が分かるとゆう事がです、所謂天地の開ける音を聞いて目を覚ました事ではなかろうか。そうゆう目を覚まさして頂いての信心、言うならば眠い眠いの信心ではいけません。まあだ自分が頑張らなきゃできんごと思うとる。自分が頑張るとゆう事は、只どれだけ調子よういきよったっちゃ、自分の一握りから一歩も出ることは出来ん。そうゆう信心をさせて頂いてです、本当に神様のお働きには恐れ入るとゆうおかげを頂くとゆう事が、それは脇から見ると棚から牡丹餅のごたるけれども、決して棚から牡丹餅じゃない。そうあるべくしてあっておるのだとゆう事。
合楽の場合なんかそうでしょう。わずか教会になって五年、そして今日このようなおかげを頂いておる。それこそ棚から牡丹餅のごたる。「大坪さん、あんたふがよかったの」と、或る先生が私にそげん言われましたけれども、「何がふがよかつの」と言おうごたるけれどもね、ちゃあんとこうあるべくしてあっておるのだと。けれどもああた、ふがよかったと言う人は言うてもいいじゃないか。棚から牡丹餅とゆう程しの、やはりおかげを頂かねばいけん。けれども決して棚から牡丹餅とゆう事ではない、そうゆうおかげの頂けれる土台とゆうものをです、私は今日は大きな信心がよいとゆう御教えから頂いたつもりでおります。自分の周囲にです、そうゆうまあだ嫁ごさんどん持たん人がござるなら、それこそ持ちゃよかのと、触れ歩く位な勇気がいります。あの人は今頃ちった信心が寝むっとると思うなら、それこそ起しゃよかとゆうようなね、その触れ歩くとゆうだけでも度胸がいる事です。
私はどうでも、自分がおかげを受けておる、その姿をです、それこそ日吉さん所のお母さんじゃないけれども、折角修行ば、思い立ったならば何故途中で止めんのと言うて、叩きに行く位なね、気持ちがいるのじゃないか。同時に今日私は、大きな信心とゆう事の意味をです、高橋さんの例をもって聞いて頂きましたが、所謂これなら日本一もまんざら夢ではないとゆう程しのね、希望が出る程しのおかげというか信心を頂きたいですね。どうぞ。